
会社経営の傍ら、心理カウンセリング・コンサルタント講演・コンプライアンスに基づく講義なども行っています、りゅうこころです。ryukokoro
相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年7月、利用者ら19人が殺害され、26人が負傷した事件で、殺人罪などに問われた元同園職員、植松聖(さとし)被告(29)の裁判員裁判が8日、横浜地裁(青沼潔裁判長)で始まるにあたり、心理学士として私なりの考察をしてみようと思います。

「大麻精神病」「自己愛性パーソナリティー障害」という診断が下され、責任能力の有無が争点になると報道されているが、現在でも一貫して『障害などがあって意思疎通ができない人は社会にいるべきではないと独善的な主張を展開して事件を正当化している』被告に対して、「監視の目が緩くなる未明に職員を動けなくするための結束バンドを用意して侵入し、意思疎通が難しいと判断した利用者を狙った被告に対し、計画的犯行で責任能力の有無が問えるか問えないかと言う次元の問題ではない」と私は考えます。
先日社会に大きな波紋を広げたニュース、【6/9新幹線無差別殺傷事件 】も動機は非常に独善的で、残虐極まりない事件でした。リンク貼っておきます
今回の事件に於ける「大麻精神病」は違法薬物により精神状態に異常をきたしていたと明確にわかりますが、これを責任能力判断にすべきではない。そして「自分を特別な存在と思い込む、自己愛性パーソナリティー障害」に関しても心理学の観点から考えても、何でも障害と付ければいいってもんじゃない!って感じてしまいます。同様にこの障害をお持ちの方が今回の様に事件を起こしたりせずに、自分の思考の中だけで妄想する分にはいいのです。妄想まで否定するつもりはありません。でも被告は実際に事件を起こし多くの命を奪った。
これに対し当初は「責任能力ナシと判断されるなら死刑にすればいい」と語っていた被告が「死刑を下す人は現実考えて」と自らの死に対して恐怖を口にし始めている。ご遺族からは『死の恐怖を持って極刑を』と記事に掲載されていたが、ご遺族様の心中たるや(さもありなん)と考える。
死刑制度の有無を論点にすると話が大きくなりすぎるので、それはまた後日書きますが、現行日本の司法制度で裁かれるとなると「諸外国の様に終身刑がない以上、社会に出すべきではない即ち極刑」となってしまうでしょう。極刑を下した人だって「裁判員の一員として他人の命を奪ってしまう」という心労は必ずあるだろうし、当然のことながら気持ちの良いものではない。この点からも人間の命を左右する決断と言うのは凄まじい影響力が方々に広がってしまうという事が言えると思います。
昨日の公判で被告は自らの小指を噛みちぎるような行為をして、わずか15分で強制的に退廷させられていますし、「自分が社会的弱者を排除しなければいけない」という強い思想を語っていたようです。
人間の命を強制的に奪う事なんて誰にも許された権利ではないのです。
その当たり前な事が判らなくなってしまっている現代に、私は疑問を投げかけ続けたいと考えています。
りゅうこころでした。ryukokoro
