
「もうさ、空手の話は飽きた!!」そう思われる読者の皆様、今しばらく
お付き合いください。空手こそが私を構成する要素なのですから (^^;
僕は少年部への入塾を希望し、許可された。幼稚園や小学校低学年主体で
「はい、ちゃんと並んでー」から始まるレベルである。これには2つの理由
がある。1つは「あんな姿を見せてしまって大人と練習するのが気まずい」
2つは「すべてを1から習いたかった」こちらの比重の方が当然重い。
「礼儀・礼節・挨拶」は武道の基本である。流派によって細部は違う。
「正座する時に右足から折るのか左足から折るのか?」
「正座した時に手は開くのか握るのか・その置き場所は?」
「お辞儀の角度は90度?60度?30度?」
「返事は はい・押忍どっち?」
など、そんなのどっちだっていいじゃん!!と思われるかもしれないが、
これが重要なのである。統率の取れた組織で自らを律する事が出来る様に

なる為には重要な事なのだ。考えてみて欲しい。
なぜ、幼稚園や小学校低学年という子供達が空手道場に預けられるのか?
月謝は3.000円。立派な習い事で、お父さんのお小遣いから支払うとなると
決して安い金額ではない。近年ではフィギュアスケートやヒップホップなど
もっと格好の良い体を使う習い事なら他にもある。 では、なぜ空手??
「空手をやらせれば、子供のお行儀がよくなる」と親が考えるからだ。
もちろんお行儀は最優先事項なのできっちり叩き込む。それでなくても
テレビやゲームで戦闘シーンを見て育った子供達だ。
ふざけて暴れたら大怪我する。だから、泣こうがわめこうが、
「親が嫌なら連れて帰ればいい」というスタンスで協調性と礼儀は教える。
最初はみんな帰りたがる。「やーだー!帰るー!おかあさーん!!」子供は

泣き叫ぶ。「じゃあ、よろしくおねがいします」と親御さんは置いて帰る。
自分達ではそこまで厳しく礼儀を教えられないから、入塾させるのだ。
僕らとて鬼ではない。褒めて透かして宥めながら、徐々に形にしていく。
稽古の中でだんだんと子供は痛く辛い思いをしていく、そして泣く。
でもみんな同じ痛みを知って育ってきている。だからこそ、自然と上級生は
下級生の面倒を見るようになる。下級生は同級生の言う事を聞くようにな
る。兄弟の構図だ。血の繋がりはなくとも、それが出来るようになるのは痛
みを伴うからだ、と僕は勝手に思っている。動物の躾だって痛みである。
「噛んだら叩く」はその典型的な例だと思っている。
ここで誤解を招かない様に追記するが、空手道場では子供を叩かない。
成長していく過程で、級が上がるにつれて痛い思いをする事が増えるのだ。
では入りたての幼稚園児にとっての痛みとは何か。家でやらなくてよい事を
やらされる苦痛。我侭が通らない苦痛。泣いても駄目だということが思い
知らされる苦痛。そして帰る事が許されないという苦痛である。
「お行儀が悪い」「キャーと大きな声で叫ぶ」「泣いて駄々をこねる」
「好き勝手に走り回る」「食べ散らかす」「親の言う事を聞かない」
こんな事が、親から引きはがされてみてやっとわかる様になる。最近の
幼稚園や保育園、小学校では「パワハラ」を恐れてここまで踏み込まない。
しかし道場はこれらが合意の上で、親御さんが月謝を払って子供を
預けるのだ。言い方は悪いが、「躾をしてもらえるところ」なのだ。
先述したように、我々武術家は子供に手を挙げない。なのに、なぜ
昨今のわがまま放題の子供が言う事を聞くのか。これは生物全般そうだと
思うが、ペットを飼っていらっしゃる方は思い出してみて欲しい。
ペットは家族の中でも優位を決める。
「この人に言えばご飯がもらえる」
「この人は散歩に連れて行ってくれる人」
「この人はトイレを替えてくれる人」
そして・・・「この人は中でも一番怖いから逆らってはいけない人」
これなのだ。気合いで我々は大きい声を出す。みんな元気に大声を出す。
でも師範レベルの声の出し方は一般のそれとは全然違う。まるでライオンの
咆哮が如くだ。咆哮で泣くのではなく、怯えて固まる。怒鳴るのではない。

喝を入れるのだ。声だけではなくその姿勢、眼差し、全てに於いて勇ましく
猛々しい。そうでありながらも普段はニコニコとして決して怒らない。
私が以前所属していた道場では門下生が100人以上在籍しており、準師範
クラスの人が5~6名居たが、叱って気を入れるのは問題ない。感情で
怒った人間は降格として準師範を降ろされる。そんな人が何人もいた。
僕は準師範で怒ったことは無いが、暴力事件を起こしたので一発破門だ。
「せんせー、おしっこー(笑)」 保育園や小学校では許されている。
道場では許されない。「稽古前にトイレに行くように」とちゃんと言われる
からだ。それでも「せんせー、おしっこー」はある、99%男児だ。勿論
許されない。『さっき稽古前に行ってきなさいって先生言ったよね?』
「うん、でもおしゃべりしてたから(笑)」『そうか、我慢しなさい』
子供は退屈になったり自分のやりたくない腕立て伏せや腹筋になると
言い出す。壁までヨーイドン!!などの時は言わないのだ。
それでもしばらく「せんせー、おしっこー」は続く。『我慢しなさい』
その内本気で「せんせー!おしっこでちゃうー!」となる。『我慢しろ』
「がまんできないーー!!」『そんな事知らん!はい次前蹴り用意!!』
子供は泣きながらおもらしする。『自分で片付けなさい。雑巾はあそこ。
バケツに水入れてきて自分でやる。』子供はわーんと泣く。『泣くな!
みんなが稽古できなくて困るだろ!さっさと片付けろ!』これが一種の
合図だ。上級生たちが『押忍、自分手伝ってもいいですか!』と言い出す。
『もちろんだ、ありがとう!!頼むな!!』 普段厳しい師範から言われる
この笑顔の一言がどれだけ嬉しいか、皆さんは想像がつくだろうか。その子
が指揮を執り、『○○は雑巾!◇◇はバケツ!△△は着替えさせて!!』

実に効率の良い素晴らしい段取りで事は終息する。『押忍!ありがとう
ございました!!』掃除して面倒を見てくれた子達が師範にそう言うのだ。
『はい、みんなごくろうさま、押忍!』師範から戴ける『押忍!』は
独別な意味を持つ。誰もがもらえるものではなく、賛辞なのだ。
こうして自然と上の子は下の子の面倒を見るようになっていくのだ。
この協調性の中から生まれてくる親切さ、思いやりを親は見る事なく
「空手をやらせておけば素直な子になる」と思う。これは空手だけで
はなく、礼儀礼節を重んじる武術だけではなく、剣道、書道、茶道など
「道」と付くものは大概そうではないかと思う。
少し脱線したが、この時お漏らししてしまった子を誰一人責める事無く、
誰一人『汚ったなーい』何ていうことなく、社会問題になってる
「いじめ」という概念が発生しない。嬉しい事も辛い事も皆で共有の
世界。すごく素敵な世界の様に見えるかもしれないが、子供達なりに
苦労して辛い思いをして辿り着く境地なのだ。その中に楽しさを感じる
子供は将来僕の様に指導者になりたいと思うのかもしれない。
